「琉球大学でいご会」の17年
琉球大学医学部 1972年5月の本土復帰の後、77年4月琉球大学に医学部創設準備室が設けられた。沖縄県も、各種の協力事業に加え解剖体確保推進協議会を結成し、79年2月献体組織「でいご会」が設立された。79年10月1日に琉球大学医学部が設置され、81年4月から学生を受け入れることになった。特に本県において困難が予想される解剖体確保のため、79年7月秋田大学の田中重徳が医学部創設準備室付解剖学教授として発令された。 医学部発足の際して解剖体の不足が懸念されたが、それは沖縄地方独特の民俗習慣や門中(むんちゅう)と呼ばれる親族組織そして強い祖先崇拝が、献体の理解・普及にとって、また、解剖の承諾を得る際の、大きな壁になるのではないかとの危惧からである。事実初期の献体登録の数は医学部の将来を危ぶませるほど低い伸びしか示さなかった。このような事態に対し全国の献体組織や他大学の解剖学教室も危機感を募らせたが、これといった解決策も見いだせぬまま、数年前まで学生8-10人で解剖体1という状態が続いた。 89年東京医大内野滋雄教授の仲立ちで同大「東寿会」会員の多数の有志が琉球大学での解剖を受け入れ「でいご会」に協力会員として加わった。その結果90年には登録者数は400を越えたし、これに刺激されたかのように沖縄での登録も伸び96年3月末では登録会員が600名に達した。しかし会員数の増加は、まだ成願者数のそれとなって現れてはおらず、必要な遺体数が成願された会員によって充たされるためには、まだまだ登録者の増加が必要な状況にあり、現在も教室職員、大学当局はもちろん「でいご会」会員自らも献体運動の推進のため、各種の啓蒙広報活動を行いつつある。
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